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イタ雑が開店10周年を迎えた2005年、その記念すべき10周年にイタリア現地事務所を開設した。といってもそれはもちろん小さなアパートの一室で、場所はFIATのお膝元のトリノ。市内の中心部、いわゆるCentro
storicoと呼ばれる旧市街にも徒歩圏内で、ちょっと頑張ればかのLingottoへもテクテク歩いて行けるという、イタ雑的には絶好のロケーションだった。買い揃えた家具が届いた日、アパートの門扉の脇の居住者表示板の中で、自分の名前が彫られた真新しい真鍮のプレートが5月の陽光を受けてキラキラ輝いていた。
すでにそれまでに10年間、トリノと日本を頻繁に往復していたのだから、ことさら新しいものが日々目に飛び込んでくるというわけではなかったけど、やっぱり実際に「住む」というのはホテル暮らしとは大きく違った。必然的に隣近所との人間関係が生まれてくるし、飛び立てば後は知らぬ存ぜぬの旅人気分というわけにはいかなくなったのだ。生活者としてイタリア社会の一員になったっていうんだろうか、なんか、そこにいることの責任みたいなものが、突然目の前に現れてきたような、そんな気負いさえ感じていた。
小さなアパートの中の事務所を中心にして、コンパスで毎日少しずつ大きな円を描いていくように、自分のトリノがゆっくりと時間をかけて拡がっていった。食料品を買いに行くスーパー、午前中に行くとホッカホカの出来たてが手に入るパン屋、電池の品揃えがマニアックな工具店、中に入りきれない客で舗道に行列ができるピザ屋、細かく砕いた氷の上に泳いでるみたいに種々雑多な魚を並べてる魚屋、そして手際よく美味いエスプレッソをさっと出してくれる朝のバール。生活していることの必要性に迫られて行きつけになった様々な店で、それまで知らなかったイタリア人の側面に触れ、旅行ガイドにはない新しい言葉をたくさん覚えた。
ということで約5年。真新しく光っていた真鍮のプレートは、気がつくと他の居住者のそれと同じようにいつの間にか煤けて黒ずんでいる。と、そんなふうにようやくこの場所に自分がいることの違和感や変な気負いが薄らいできたというのに、この春、ここを出て事務所を別の場所に移すことにした。新しい物件をぶらりと見に行って、即断即決、その場で決めてきてしまった。今度はトリノ中心部から15kmほど離れた住宅街だ。チェントロにもLingottoにももう歩いては行けない距離にある。誰がどう想像したって、ここがイタ車関連アイテムのあれこれを日本に向けて送り出している秘密基地だとは思いもつかないような、そんな普通のイタリアの住宅地だ。穏やかな風が吹いている。
近くに美味しいパン屋も見つけた。バールは歩いていける距離に2軒。これまでの事務所の周囲のような賑わいはないけれど、いろんな雑音まみれの市内中心部に疲れて、もうそろそろそこから離れたいと思ってたんだからこれでいい。ただひとつ残念なこと、それはシルヴィアを失うことだ。オカマの売春“婦”、シルヴィア。ほぼ毎日、雨の日にも雪の日にも風の日にも、変わらずイタ雑事務所の窓の下で客を待ち続けた、陽気で勤勉で前向きなシルヴィア。部屋の中から窓ガラスを通して見える「彼女」の姿に、時にその姿に勝手に励まされながらなんとかやってきた5年間だった。
今度の事務所のいちばんの楽しみは、大きなテラスがあることだ。そこに置くテーブルと椅子のセットをIKEAで買った。送ってくれるように頼んだら目を剥くような送料を言われ、配達日指定とは客が日時を指定するのではなく、売り手が届けられる日を宣言することだというのにもビックリした。でも、まあ、いい。暖かくなったらテラスの椅子で、日曜日の午後、こっくりこっくり居眠りなんかできるだろうか。シルヴィアのいない窓の外に見えるレンギョウの木に咲く黄色い花が、焦らずにゆっくりね、と優しい葉ずれの音をきっと届けてくれるだろう。
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